はじめに:「境界」に対しての考え

 米国のトランプ元大統領の「Make america great again」や本国の安倍元首相の「美しい国、日本」などのナショナリズムを匂わせる保守的発言により、国境や自国と他国という、境界についての考えを巡らせることが多くなった。また、SNSで自分の生活をさらけ出す公開活動が行われる中、自分と他者の境界というものが鮮明化しそれが「隣の芝生は青い」という感情を生んでいる状況があると思われる。このようなことは境界で分けられたもの同士の物理的または精神的分断を起こすのではないかと感じている。

 そこで境界ということや、物事に境界を設ける「分類」また、反対に空観 (くうがん) で語られる相互依存性や繋がりについて考察をしてみたいと思う。そして最後に境界と相互依存性をつなげる「曖昧な境界」という考えを提示し、一見はっきりとした線で区切るという境界という考え方に曖昧性が加わることによる、さまざまなもの解釈の柔軟化や新たな考えを創発する視座を与える一助となれば幸いである。

分類という境界

 人間は身のまわりのものに法則性や共通性を見出し分類をすることで文明を発展させてきたということは言うまでもない。生物の分類により生態系への理解やウイルスの発見などがなされた。また、症状を分類し法則性を見つけたことにより病名が付けられ、治療に繋げられてきた。更に、化石や発掘品を分類することによって、我々の暮らしを長い時間軸で考察することもできるようになった。

 他方で生物の分類について馬渡(1998)によって分類がもつ曖昧性も示されている。例えば、同じ種であっても生殖的に隔離された個体群の間で交配が長い間絶たれ、形態的にも社会構造的にも大きく異なった種があった場合に、どう分類するか/し直すかという問題もありどこまでを同一種とし、どこからが別種とするかという部分に曖昧性が残り、そのことについて「分類学は境界の曖昧さに目をつぶっているわけではない。種の境界に曖昧さが残るのは、自然そのものがはっきり線を引いて区別できるようなものではないからにちがいない」(馬渡 1998)からだと述べている。

国境という境界

 では国境はどうだろうか。国境は国と国とを分かつ、絶対的で強力なものであるが、一部の国の国境には大きな問題が起きている。たとえば西アフリカ諸国では西洋列強による一方的な分割が、現地の政治的領域を無視する形で行われており、同一部族が2カ国以上に分割されたり、あるいは逆に言語、文化、習慣が全く異なる多くの部族が、1つの国境線の中に取り込まれた(島田 1980)。このことからいえることというのは、身の回りにある境界と、本来的な境界が違ったり、より流動的であったり不確定的なものである場合があるということである。

 また、日本と遠く離れたカザフスタンやキルギスの人の容姿が日本人のそれとよく似ているということを聞いたりするが、このように境界を隔てて更に地理的な距離も離れている場所で共通点を多く持つ人や文化、言語も存在する。

つながりあう生物

 もう一度生物学の世界に話を戻そう。カナダの有名な遺伝子生物学者デヴィッド・スズキ『いのちの中にある地球―最終講義:持続可能な未来のために』では、次のようなことが述べられている。森と海の重要なつながりが示されており、森林を流れる川で生まれたサケが海へといき、育った後また川を遡上しそこでクマや鳥などが捕食され、森林で排泄が行われることで海洋性の栄養分が森に運ばれる。そしてその栄養をもとに木々が育ち、豊かな河川となり、海もまた豊かとなる。これに類似した話は宮城のホタテ養殖漁師の畠山重篤氏も著作の『森は海の恋人』で述べられている。

 つまるところ、自然の中でもそれを分かつ「境界」というものが存在するが、その構成要素である分子、原子などは互いに流動しあっており多様なつながりを見せている。分子生物学者の福岡伸一氏も「動的平衡」という言葉を用いて、すべての形ある生物は常に崩壊と構築を繰り返すというダイナミズム(動的状況)のなかで平衡状態を保っている(姿を保っている)と述べている。

性における境界

 生物の性も流動的である。例えば魚ではハタやクマノミといった種は性転換を行う。村田ら(2020)によれば「生まれた稚魚は、まず雌として成熟し、大きく成長した後に、雄へと性転換する」だけでなく、ヤイトハタという種においては「孵化後にすべての未文化生殖腺が卵巣へと分化し、すべての個体が雌にな」り、また「生まれつきの雄である一時雄は存在しないことが明らかになった」としている。つまり、性が不確定な状態で孵化して(生まれてきて)その後すべての種が雌となり、成長後雄へと性転換するという性の流動性が示されている。

 人においても性の流動性というものはあるだろう。生物学的に男性としてきて生まれ、女性へと性転換する人やその反対、また生まれつき生殖器が男性と女性の中間的な特徴をもつ人もいる(百枝幹雄2017, 日本医事新報社webサイト)。興味深いのは染色体構成や性腺による、もしくはそれらによらない、男性と女性の性器の中間的形態のものは「異常」という単語が用いられ分類されているということである。つまり正常な性器の形態というものがあり、その中間的なるものは正常と異なるものという扱いである。ではLGBTQのような性器の形態以外の面で男女の中間的なる特徴を持った人はどのような扱いなのだろうか。

 紅白歌合戦のロゴマークが単色の赤・白からグラデーションの表現となった。性はグラデーションである、というメッセージの表れであるのだろう。性的指向および性自認にかかわらず、すべての人が、より自分らしく誇りをもって前向きに生きていくことができる社会の実現を目指す特定非営利活動法人 東京レインボープライドが運営するTOKYO RAINBOW PRIDEでは「性のあり方はLGBTQとそれ以外の人でくっきり分かれているのではなく、グラデーションになっています。」とある。しかし、本当にグラデーションなのだろうか?いや、グラデーションだけで説明し得るものであるのだろうか?

 例えば、自分はゲイだ、という人は自分を「ゲイ」という分類の檻に自らを入れているのではとは考えられないだろうか?さらに、くくりきれない性的指向、性自認を言語化しひたすらに羅列したLBBTQQIAAPPO2Sのような用語も存在する。

 分類は文明を発展させる大きな力となってきたかもしれないが、もはやそこに意味があるかどうか疑問を感じざるを得ないこのような動きは、むしろ我々の思考を終わらぬ性の分類の闇へと誘うものにほかならないとさえ感じてしまう。個人的な見解ではあるが、同じ病気を患うものでも一概に同じ悩みをもっているというわけでもないし、その悩みの重い/軽いも様々である。おそらく、性に関する悩みや問題に関しても似たことがいえるだろう。「ゲイ」という分類をしたところで差別/区別するには都合の良いことだが、本人たちは分類をされるその事自体から得る利益がない、もしくは僅かなのではないかと思う。むしろ、それぞれとの対話を通じて一人ひとりの悩みに寄り添うことが本来的な悩みや諸問題の解決につながるのではないだろうか。

空:相互依存性の世界

 龍樹(ナーガールジュナ)についての著書がある中村(2023)は、「<空>というものは無や断滅ではなくて、肯定と否定、有と無、常住と断滅というような、二つのものの対立を離れたものである。したがって空とは、あらゆるものの依存関係(relationality)にほかならない」と説明している。般若心経における「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」にある「空」という文字が「無」と訳され、色(この世のすべてのもの)が無であると解釈されることがあるが、正しくは先に述べたとおりであり、全てのものは相互依存的であるということになる。

 構造主義を理解する上でも出てくる例え話であるが、ジャンケンを想像して欲しい。ジャンケンのグーとチョキとパーのそれぞれには絶対的な強さや個性、特性などがあるわけではない。グーはパーに負け、チョキに勝つという具合に、それぞれの手に勝つものと負けるものが決められているだけだ。そのためグーはを出せば絶対勝てるわけでもないし、チョキだから絶対に負けるということもない。全ては関係性で勝負がつくのだ。つまりそれぞれの手がそれぞれの手に相互依存的であるからジャンケンはできるということだ。

 空の考え方もこれと似ていて、絶対的なものはなく関わるものによってある人には椅子に見えるが、他のある人からは机に見え、また違う人はベットだという。というように、ある人がこれは椅子と決めたからそう言っているだけで本質的なものというのは絶対的に決められておらず、全てのものは相対的な存在であるということが空の簡単な説明である。

 本来無一物という禅宗の言葉は、一切のものは本来空であるので執着するものはない、という意味だが、この世は、特にこの頃は冒頭に述べたようなやや過激なナショナリズム発言やSNS等による自身の生活の公開活動がもたらす自他の境界の鮮明化による執着や妬みというものが溢れているように思えてならない。また、性自認などの性の分類活動によるマイノリティの可視化や分断もあるように思われる。これらをもう少しダイナミズムの中で捉えることができれば、社会に少しであっても希望を示せるのではないかと思い、曖昧な境界という考えが私の中で芽を出した。

曖昧な境界の可能性

 先程から分類や境界という言葉と、空という言葉を使って来たが、それらの言葉をつなげる存在として「曖昧な境界」いう言葉を提唱したいと思う。

 曖昧という言葉の意味は「事がはっきりしない」ということだが、境界という言葉とともに使う上で少なくとも2つの意味をもっているといえよう。1つは境界線の位置や形状が変わるという意味であり、もう1つは境界線がぼやけ、または紗幕を通したように朧げで実線を示しておらず境界がはっきりしない状態という意味である。ここで使う曖昧という言葉はどちらかというと2つ目の意味に近いと思ってもらえれば良い。

 境界がぼやけているということは、完全に分断をされていないということである。つまり分類や分断をしているようで、実は繋がっていたり影響しあっているということである。先に述べた国境や性、遺伝子、空というものも二項対立的なものでなく影響しあっているものである。つまり空や構造主義的様相を呈しており、またダイナミズムの中においてのみ説明ができるようなものであるといえるだろう。たとえば、編集工学者と自身を呼ぶ松岡正剛氏が矛盾する2つの言葉をつなげると良いということを述べていた。アサヒのビール、スーパードライのコピーを考えることになった松岡氏は「コクがあるのにキレがある」というアイデアを出したという。当時は背反する概念と捉えられていたコクとキレを組み合わせた。飲んだ人にしかわからないこの背反する2つの感覚を説明したこのコピーも境界に曖昧性を与えた例だと思う。

 このような考えに沿って考えてみると、性についても、「男であり女である」、「男でなく女でもない」というだけでなく「昨日は女だったが今日は男、明日はわからない」であるとか、性を刹那的に捉えるのではなく時間という次元を付け加えた上で性を考えるということもできるだろう。

 元来、写真界では構図や色、形、要素が似ているものを隣同士に配置することによって写真「遊び」をしてきた。特に写真集などでは、映像のようにストーリーに沿って時系列ごとに写真を配置することもあれば、見開きで見たときの右のページの写真と左のそれとを比較してもらい楽しんでもらうということをよくする。これは写真が映像とちがい、1枚で成立するものであるからだ。一見似ていないようで、両方の写真にある共通点が読者に言葉では説明の難しい、もしくは時間のかかることを視覚的に示してくれたりする。また、そういったページが写真集の中で続くことで、読者は様々な物語を自分の頭の中で作っていく。文脈の無いように見えるものを本という物理的なものの中にまとめていることで、人は連続する関連のないように思われる写真たちも物語化できるのである。

 曖昧なものや真逆のもの、関係性のないもの、同じものなどを一冊の本にランダムに置くということは極めて自然的であると思う。人工的な、法則性の上で整列した我々の考えをリセットしてくれる装置ともいえるかもしれない。

参考文献

・島田周平(1980)ナイジェリアの国境線確定過程,『東

  北地理学会誌』32(4), p157

・デヴィッド,S. 著, 辻信一訳(2001)『いのちの中にある

  地球―最終講義:持続可能な未来のために』NHK出

  版

・特定非営利活動法人 東京レインボープライドwebサイ

  ト(https://tokyorainbowpride.com/

  about2024/)(閲覧日:2024年1月23日)

・中村元(2002)『龍樹』, 講談社学術文庫

・馬渡峻輔(1998)分類学とは何か, 『日本物理学会誌』

  53(4), p269.

・村田良介, 小林靖尚, 野津了, 中村將(2020)ハタ科魚類

  の性分化と性転換に関する形態学的および生理学的

  研究, 『日本水産学会誌』86(4), p275,283

・百枝幹雄(2017)性器の形態異常, 日本医事新報社web 

  サイト(https://www.jmedj.co.jp/premium/

  treatment/2017/d200706/)(閲覧日:2024年1月

  23日)

・NewsPicks /ニューズピックス(2021)「前編:【松岡

  正剛×波頭亮】日本人をRethinkせよ。」

  (https://www.youtube.com/watch?

  v=W7xkP7fotbk&t=1274s)(閲覧日:2024年1

  月23日)

付記 appendix

人と生成AIの境界はあるのか

 まず、生成AIを用いた画像の制作過程について明確にしておきたい。筆者が利用した生成AIはMidjurney(ミッドジャーニー)とOpenAIのDALL-E(ダリー)である。それぞれ特徴はあるが、個別の説明はここでは省略させていただく。制作の過程に関しては共通しており、①プロンプト(指示文)を考え打ち込み、②画像が生成され、③必要に応じて違うバリエーションを生成したり、より質の高い生成画像にするプロンプトもしくはボタンを押すことでより想像しているものに近い画像を生成していくことを繰り返す、という具合である。またプロンプトとともに参考画像を添付することも可能で、それによりイメージに近い結果を得ることができる。

 画像をAIで生成する際のポイントをOpenAIがChatGPTを通じて返答している。それによると、下記の6項目が肝要となる。なお下記のポイントは「DALL-Eを用いてどのように画像を生成するか(how to create an image with DALL-E)」という質問に対し、英語での返答をChatGPTに翻訳させ引用している(2024年2月24日現在)。

1)具体的であること:画像に見たい設定、オブジェクト、キャラクター、色、ムード、特定のスタイルや芸術的影響など、詳細な説明を含めます。

2)構図を考える:要素が画像内でどのように配置されるべきか考えます。クローズアップにするか、ワイドショットにするか? 主要な被写体はどこに位置すべきか? 照明はどうあるべきか?

3)スタイルと芸術的影響を指定する:特定の芸術スタイルや時代を念頭に置いている場合は、それを言及します。例えば、印象派のスタイルで、またはルネッサンス絵画を思わせる画像を要求することができます。

4)色と質感を言及する:特定の色や質感を好む場合、それらを説明に含めます。

5)曖昧さを避ける:できるだけ明確であいまいでないようにしてください。曖昧な説明は予期せぬ結果につながる可能性があります。

6)ガイドラインと制限に従う:DALL-Eには特定の現代のアーティストのスタイルで画像を作成したり、著作権で保護されたキャラクターを描写することを避けるなど、いくつかの制限があります。プロンプトがこれらのガイドラインに沿っていることを確認してください。

引用は以上。

 上記のうち、第6項目は使用上のガイドラインであるため、実質的には生成のポイントは5項あるということになる。その5項のなかでも経験上もっtも重要な項目は第1項である。具体的な指示ができればできるほどイメージしているものに近づいていく。ただ、仮にプロンプトを具体的にかけていなかったとしても、特にDALL-Eの場合、自分が思いえがいていたものとは異なるものの、きれいな画像が生成されるということもある。また、一度生成された画像をこういうように改善してほしいだとか、そのまま改善を続けて(keep it goin)などと入力すると修正が加えられ、またより細かな描写になったり、複雑な構図の画像が生成されたりする。

 そして、英語を使用してプロンプトを書くということも大事である。以下の文章はChatGPTに対して、「DALL-Eを使う際は英語を使うべきか?(When you use DALL-E, should you use English?)」という質問をした際の返答を英語から日本語にChatGPTを用いて翻訳したものである。「はい、DALL-Eは、テキスト記述から画像を生成するためにOpenAIによって開発されたAIシステムで、主に英語の指示を解釈するように設計されています。これは、そのトレーニングが主に英語のデータに基づいているためです。DALL-Eは他の言語を理解する能力が多少あるかもしれませんが、その性能は英語に最適化されており、英語の説明を使用するときに正確で関連性の高い結果を得る可能性が高くなります。」そのため、英語で具体的に指示をする、というのが生成AIを使用する上での基本となってくるであろう。

「こういうもの像」

 ChatGPTの基本がわかったところで、AIによる生成画像の特徴という点に踏み込んでいきたいと思う。人が描いた絵を想像してみてほしい。そこには絵の上手い下手はあるものの、いつも「こういうもの像」というものがある。例えば顔には目、鼻、口、耳ということや、指は5本、手は2本であるとか、目の大きさは左右対称であるなどの「こういうもの」という像がある。もちろん外見というものは病気等によって違う見え方になっている場合もあるが、多くの人が「人」と想像すればこう、ということや、「鳥」と想像すればこうなどの「こういうもの像」というものが存在するであろう。しかし、生成AI、特にMidjurneyを使用した際はその「こういうもの像」が共有されない事が多く、そのため人の肖像画を作るようにプロンプトを書いても目の位置がおかしかったり、腕の位置や手指の本数がおかしかったりということがよく起こる。DALL-Eに関してはそういう事が少なく、ほとんどの場合で「こういうもの像」が共有されている。しかし、それでも構造的におかしい場合は「体のつくりに正確に(be accurate to the body structure)」というプロンプトを追加してあげることでほぼ解決する。人は生き物やその他の構造物を骨格等の基本構造から理解しており、特にその物をイメージしながら生成AIでプロンプトを書いているときというのは頭の中にその物をしっかりと想像できている場合が多い。人の頭には常に「こういうもの像」というものがあるのだ。

 されど、この「こういうもの像」をもっているということは良いときと悪い時があるように思う。「こういうもの像」というものというのは、こういうものと決めつけているときに使う言葉であるのだから、こういうものでなくてもいいじゃないか、という画像を人が作り出すということは結構難しい。突拍子もないアイデアというのは、むしろ人以外が考えたほうがより突拍子がない感じが出たりする。そういった意味で、「こういうもの像」というものを持ち合わせていない生成AIというのがあっても良い気はしている。

決定権という境界

 人の作品制作過程とAIによる画像の生成過程に境界があるとすれば、それは決定権の有無であろう。車で例えるならば、人が行う制作というのはMT車の運転であり、生成AIを使用するということは、芸術家であれ誰であれ、AT車に乗らされ運転をするという感じではないだろうか。行きたい場所や、速度など多くのことは自分で決めることができるが、このギアを使いたいからこのタイミングでシフトチェンジをするということは決められない。AT車の場合はギアの上げ下げを車が主体となって決めている。ドライバーも上げ下げをできる場合があるが、常にいつ何時でもシフトチェンジをできるわけではないし、発進の際にわざとエンストするということも当然ながらできない。それは決定権の剥奪を意味する。

 本来はこうすべき、ということを敢えてそうしない、ということというのは人が決定権を行使し行うもので、AIで同じことが起こってもそれは大抵の場合「生成ミス」と捉えられるだろう。先述した「こういうもの像」が共有されていないがための生成ミスなのである。生成ミスした作品に意味付けをして作品化するということも悪くはないだろうが、そのミスもコントロール可能なミスではないということが唯一の難点である。ミスをするのも正しく生成するのも、それはすべて生成AI次第なのである。人にできるのはプロンプトを精緻に書きおろし、ただ願うのみなのである。「全てはAIのみぞ知る」なのである。いや、もしくは「AIすらも知らない」7日もしれない。こうなってしまうと、もはや作品として生成した画像というのは作品といえるのだろうか?

作品としての生成AIの面白さ

 私は生成AI DALL-Eを使い複数の画像を生成した。中には緻密に描写された素晴らしい画像もあるが、全てにいえることはどれも滑稽であるということである。何かそれっぽい風景を生成してはいるがどれも嘘くさく、何がどうういった事実に基づいてこうなっているのか、と思わせるようなものばかりなのである。人には到底、この完成度の高い滑稽な作品群を作れる能力はないだろう。そういうところが生成AIを使って作品を作るうえで楽しいのだ。もし仮に私が作った画像が権威ある美術館や博物館に展示されており、もっともらしいキャプションとともにあったならばそう信じ込んでいたかもしれない。そういうことを想像すると楽しくなってしまう。

質量への憧憬

 写真をやっている人には共感してもらえるかもしれないが、写真(特にデジタル写真)を扱っていると質量に対する憧れが強くなる。二進数の世界でのやり取りのみを行い、自分撮った写真はデータとしてのみの生涯を送ることが多い。質量をもつ被写体は質量を奪われ、忘却され、いずれは発見されなくなる。

 ある日、私は神社でご神木をいただくこととなる。1作目は富士(不死)の山を彫った。富士山は写真でもたまに撮る被写体であるし、その麓でキャンプをしたり、木彫りをしたこともある。思い出の地だ。それが木彫作品となり、ご神木があった神社に帰っていった。

日々の随想

 ここに日々の随想をしたためることに大した理由はない。他の大勢と同じように悩み、悶々とし、それでもその思いを少しでも高次の考えへと昇華したいというなんとも薄っぺらい企みがあるだけだ。せっかく悩んでいるのだから、それをただ流すのではなく、少しくらい溜めて、それを少しだけとり試験管にでもいれて眺めようではないかという訳である。その試験管を残しておくことに意味があるのか無いのかはわからない。しかし、書かずにはいられないのだ。書いたから楽になるとか、書かないから苦しいとかということではない。書いても苦しいことは苦しく、悲しいことは悲しい。だがしかし、その時に自分がどう思い、どのような言葉を発し、どのような創作につなげたのかくらいは後で見えてくるだろうし、それは興味深い。

理解と尊重

 ある時期を境に、私は「他人のことを理解はできない、しかし尊重はできる」と思うようになった。同じ過去を持ち、同じものに興味を示し、同じ人たちと付き合っていなければ、そしてあらゆる経験をともにしていなければ人は理解ということをすることができないと思っている。いや、たとえ同じ経験をしていても、理解をすることは不可能なのかもしれない。だがしかし、尊重はできるというのが私の考えだ。自分と相手の間にある経験の差に目を向け、その時間からきた考えに敬意を表すということだ。「理解できない」ということには変わりないが、そこに尊重する気持ちがあることでコミュニケーションがとれるようになるのではないかと思うのだ。

 では尊重するというのはどういうことなのか。それは単なる気持ちの持ちようなどではない。徹底して経験の差というのを知っていくことである。なぜそのような考えに至ったのか、その考えに至った理由は何なのか、その理由に関わる経験というのは何だったのかなどだ。そのため、自分と相手の間に大きな差があれば、当然尊重するにも時間はかかるだろう。最初は漠然とした差があって、それを最初から尊重するというのは難しい。しかし、相手がこういう経験をしたということがわかってくると次第に「だからこういう風に考えているのかもしれない」という想像が少しできるようになる。そして、共通の経験があり、それが相手の中でも自分の中でも大きな割合を占めていればより相手との差が少なそうだということも考らえれるようになるかもしれない。そう思っていた。

 しかし最近、自分は「尊重」すらもできていないのではと思うようになった。これまでの経験やそこから生まれるバイアス(偏見や先入観)は、その想像力や尊重する気持ちを歪めさせたり、靄(もや)がからせたりしているのではないかと感じている。

 人を理解したい、人を尊重したい、人がそう考えているということに思いを馳せたいという気持ちは、むしろそれらから私を遠ざけようとしているのではないかとさえ思う。シンプルに思えていたことが複雑にみえ、今は何が見えていて、何が見えないのかさえわからない。

それでもできること

 赤ちゃんが泣き、声をあげるように、声をあげることならまだできる。自分がどう思い、何を選び、どういう経験をしていきたいのか、何に悩んでいるのか。そういったことを、自慢げに声高らかに表明することならできる。何を着たらよいのか迷うようなこの気温が僕のお腹をゆるくし、高校時代に窓際で過ごしたある春の日を思い出す。僕にとっての春はこんな感じだ。こういうことは私にだって伝えられる。こういうことを伝えるしか無いんだと思う。

曖昧な境界にかけた思い

 曖昧な境界というテーマを先に説明した際、社会情勢を大いに反映させたような、いかにも今の時代に必要なことを題材としている感じを出してみたのだが、実際にはとても個人的な興味関心によるものであったということをここに告白しておきたい。人は一人でありひとりでない。精神的に、もしくは物理的に離れたり繋がりながら生きている。一個人(個体)という境を持ちながらも、臓器や細胞というようなミクロな境から、家族やコミュニティ、アソシエーションなどのマクロな境も持ち合わせており、それらはダイナミック(動的)に変化しながら存在している。僕はこういった境界というものにうんざりしていたのだと思う。分けられ、もしくは束ねられ、これとこれは同じ、これは違う、これはこの中に、これは外に属するなど、そういったことに疲れていたのかもしれない。

 去年、イタリアにいった際に新しい発見があった。もう私はイタリアにいても、もはや「イタリアに来た!」という感情の高ぶりや日本との違いを感じにくくなっていた。それは単純に自分が何回もイタリアに行ったことがあったからかもしれない。しかし、初めて行った北部イタリアの街にいてもそう思ったのである。皆、人でその人たちが歩き、話し、食べ生きている。ただそう思ったのだ。確かに食材も味付けも、建物の材料も言葉も、違うところを言い出せばきりがないほどだ。しかしそんなものは誤差でしか無いと思ってしまったのだ。私の中の日本とイタリアの境界が曖昧化が何をもたらしたのかはわからない。しかし、これをこうして思い出し、咀嚼(そしゃく)し直すことが何度かされたならば、少しずつその答えが見つかるのかもしれない。

本当に境界は曖昧になるのか

 私が「曖昧な境界」という言葉を発している時点で、ここにも境界ができてしまっているわけだ。曖昧でないはっきりした境界と曖昧な境界の間に境界を作ってしまった。先にも述べた通り、人は分類をし続けてきた。私ももれなく分類をし、境界を与えてしまった。人に伝えるという意味では、分類をするということは法則性などの特徴がはっきりと分かり理解も早まるので仕方のないことではあるが、境界曖昧化推奨派の私としては境界から逃げたくても逃げれないこの状況が歯がゆい。

 なので、最後にこういって終わることにしよう。境界は曖昧でもよいし、曖昧でなくてもよい。ただ、本稿はあまり注目されていなかった曖昧にしてみる方に少しだけ光を当てようと試みた、ということである。

 そして、このように文字という記号の羅列で境界を作り続けるより、作品を見て、言葉にはできない何かを感じていただくことがあなたにとって一番であったならば幸いだ。